安田貴広のDARADAWRITE

安田貴広のDARADAWRITE

ロックバンドAo(アオ)のVo.ヤスダが日々思ったことを書くかもしれないし、全く書かないかもしれない。

この曲の編曲をさせていただきました。

未来の風〈MV〉/ 



編曲大好きなのです。
編曲依頼、お待ちしております。
得意なジャンルは

①このnatsuさんの曲の方向性(Aimer、uru系)のバンドサウンドに+アルファでシンセやストリングス(バイオリンとかチェロとか)を入れたり入れなかったりする、いわゆるメジャーアーティストのリード曲的なエモアレンジ。

②ぬゆり、ずとまよ、ヨルシカ、ツミキ、米津、キタニタツヤ系のボカロ畑を感じる今風アレンジ。

価格は応相談で!
お客様の想定していらっしゃる様々な規模感に合わせた価格帯で承っております!

ご連絡は、ちょっとした相談とかでも大歓迎です。

以外、連絡先です。

・①LINE


・②TwitterのDM


・③okoshiyasu5678@gmail.comにメール


お気軽にどうぞー!


朝焼けはもういつの間にか
僕を置き去りにしたまま
また新しい今日が始まる
この部屋にはドアが三つ
いつかは閉まってしまうのに
僕はずっと迷い続けたまま

あの時に選ばなかったドア
その向こうには何があったのかな
そんなことを考えても仕方ないのに
受けた傷がまだ痛むんだ

アスファルトに雨が当たる
その匂いを嗅ぎたいけれど
窓を開けたら濡れてしまうから
そんな感じでまた僕は
外の世界を恐れてる
馬鹿みたいだって笑われるかな

一人では選べない選択肢
なぜこんなにも溢れているのだろう 
この部屋が埋め尽くされてしまう前に
息ができる今のうちに

あの時に選ばなかったドア
その向こうには何があったのかな
そんなことは考えても仕方ないよなぁ
後悔しないことなどありはしないから

この先で出会う悲しみ全て
意味のある事だとは思わないけど
雨の日に傘をささず歩くくらいは
できるようになりたいと思うから
窓を開けて空を見上げた

朝焼けはもういつの間にか
眩しい青空になっていた
また新しい今日が始まる


そして独り夜の中で
昼間の失敗を悔いているの
やっておかないといけないこと
手に負えないほどある気がしてる

明日こそはあらゆる人に
心から感謝して過ごそう
そんな風にいつも思うけど
起きたら必ず忘れてる

穏やかで緩やかで
空気に満ちたこの世界で
まだ僕は潜ったままで
呼吸もせずに泳いでいるよ

決して人には言えないこと
気付けばまた一つ増えてた
こんな風にほんの少しずつ
水は透明度を失っていく

経験不足な僕はただ
独りになるのが怖いだけで
そんな醜い気持ちなのに
それを愛だと勘違いした

変わらずにそこに在る
巨大な渦に呑まれぬため
まだ僕は潜ったままで
呼吸もせずに泳いでいるよ

穏やかで緩やかで
空気に満ちたこの世界で
まだ僕は潜ったままで
呼吸もせずに泳いでいるよ

夏が過ぎ 秋に吹かれ 冬が終わり 
春は来ない
まだ僕は潜ったままで
景色も見ずに泳いでいるよ
穏やかで
潜ったままで
 
おはようございます。
朝からちょっと余計なことを言います。
Uniikという、ファッション系SNS?をダウンロードしてみました。
お洒落な人たくさんいるなーと思って見てたら、ふと、一つのモードブランドの服しか着ない人を見つけました。
その方の写真に付けたうんちくのひけらかしと、知識マウント全開の熱い文章が、まぁ長い長い…。

あたかも、無数にあるブランドと組み合わせから自らの意志で選んだかのように、素材やデザインの話をずーっと語るのです。
その方は、コレクションでモデルが着てたそのブランドの服を思考停止して毎年買うだけ。そして上下そのまま着てるだけ。
自身にはクリエイティブな要素などまるで無い。

好きな服を着てるだけなら勝手にすればいいんだが、何を勘違いしてるのか、デザイナーが言ってたようなことをあたかも自分の意志のようにベラベラ語る。
正直言ってダサいと思いました。

こういう人ってあらゆるジャンルにおいているよなぁ…。
アニメとかドラマの批評を上から目線でブログに書きまくる、自分では何も作れない人とか(さすがにもういない?笑)

自分が特定の分野のオタクになることは問題無い。
しかし、知識を得た事によりのぼせ上がって他人を変えようとする人間にはなるまいと、改めて心に誓いました。

貴方は知識があるだけ。
クリエイティヴィティが無いのは何ら悪いことじゃないんだから、それを弁えて黙って好きな服着てろ!

そしたら俺も何も言わねーから!笑
キリンの首がなぜ長いのか、皆さんは知っていますか?
私は知りません。
ですが、「進化って何?」と聞かれると、なんとなくの答えはある程度共通していると思います。
たまたまの突然変異により、形態、生態、行動などの性質が、その生物をとりかこむ環境の元で生活してゆくのに都合よく変化し、それゆえにその変異を得た遺伝子が繁栄し、それ以外の個体が淘汰されることによって、結果的にその生物の特徴が変化することが〝進化〟だと考えている人は多いのではないでしょうか。
ダーウィンの進化論を薄っぺらく知っている程度の私は、少なくともそう考えています。
「カメに甲羅があるのはなぜ?」
「フクロウが鳥のくせに夜でも目が見えるのはなぜ?」
と考えると、彼らはこうした〝自然選択〟によって今の姿になったのだと考えるのが自然なように思えるからです。

しかし、私は昔、パラサイト・イヴという小説を読んで、それ以外の理由による進化が存在する事を初めて知りました。
ものすごくざっくり説明すると、酸素をエネルギーに変換するミトコンドリアは元々は別の生物であり、それが人間の遺伝子の中に吸収され、現在の人間の形になった。というような内容に基づいた作品でした。
他にも、外界から他生物の一部として組み込まれた独自の遺伝子構造を持つ器官を、オルガネラと呼ぶそうです。

そして、ウィルスもまたこのオルガネラであると主張する説もあるそうです。
レトロウィルスの逆転写酵素が発見されたことからも、この主張が生まれるのは必然的であるように思います。
ウイルスの遺伝子が宿主に取り込まれてその種族が進化するというこの、ウィルス進化論の見地からすると、今回のコロナウィルスと人類の戦いは何を意味するのでしょうか。

私は個人的には、人間の遺伝子レベルでの進化はもうある程度頭打ちの状態ではないかと考えています。
正確に言うと、人間の、人間による自己進化、もしくは自己淘汰が遺伝子レベルの進化のスピードを遥かに上回るのではないかと考えています。
サイボーグ技術やゲノム研究、そしてAIの発達がその一端です。
進化は遺伝子構造の変化のみによって促されるものではない、とするこの考えの上でコロナウィルスが人類に何をもたらすのかを考えると、急速に発展しているテクノロジーについていけるだけの価値観、カルチャー、イデオロギーといった分野における進化が考えられます。

大袈裟ではなく、コロナウィルス以前の人類には、もう戻れないのかもしれません。
人との直の触れ合いや繋がりがなによりも大切だという一般的な価値観を、コロナウィルスは全否定してきます。
究極的には、人と触れ合うことが皆無である無職引きこもりの人が、今一番コロナウィルスの脅威を感じなくて済む状態になっています。
テレワークがこんなに早く普及するというのも想定外でした。
欧米の、ハグやキスの文化も今後見直されるかもしれません。
私の個人的な印象ですが、Skype等を使用したテレビ会議はとても合理的な割に、特に年配の方にとってはどこか「サボっている」、「手を抜いている」、「愛(誠実さ)が無い」というような印象を持たれる事が多く、実は特に大きな必要性が無いにも関わらず、東京本社や取引先に行き、あるいは全社員が一箇所集い、会議や集会が開かれていたように感じてしまいます。
コロナウィルス以降は、少なくともこの価値観と慣習は大きく変わると思っています。

また、奇しくもこのタイミングで通信は5Gの時代に変わっていきます。
技術的なところが大きく進化しているのに、肝心の人間が何も変わらないという方が不自然であると、私は思います。

あくまでもこれは一例に過ぎず、私が考えもしない変化(進化)が、あらゆるところで起きている最中なのではないでしょうか。

そんなことを考えながら、バカ殿のDVDをオンラインでレンタルできないか調べています。
仏教にはこんな話があるそうだ。

天国でも地獄でも、食事をする時には必ず箸を使わなければならないらしい。
しかし、どちらの世界の箸も、恐ろしく長くそして重いのだ。自分の食べたいものを自分の口に運ぶことが難しいほどに。

地獄の住人は我先にと食べ物を奪い合うのだが、箸の長さと重さゆえに結局食べ物を口に運ぶことができない。それゆえに誰もが痩せこけてしまっている。
一方天国の住人は同じ箸を使っているにも関わらず、それぞれがお互いに相手の食べたいものを箸で口に運んであげるのだという。

なんとも奇妙な話ではあるが、この話からわかることは、天国の住人は助け合うことを当たり前だと思っているということ。さらにはそのことに喜びを感じているのだということがよくわかる。この関係性は、自分が他者に何かを〝してもらう〟ことに対して常に感謝していられる人間同士でないと成立しない。

人間は、誰かに何かを〝してあげた〟ことに執着する。そして〝してもらった〟ことは驚くほど忘れてしまう。僕ももちろん例外ではなく、誰かに〝してもらった〟ことは忘れがちなのに〝してあげた〟ことだけはたくさん覚えているような気がする。最近特に、それを思い返して反省している。

天国の住人はなぜ天国に行けたのか。それはやはり〝してあげた〟ことではなく〝してもらった〟ことをしっかり覚えていて、お互いに感謝しながら生きることができる人達だからだろう。そういった人間は、まず悪行を働かないだろうから。

感謝する気持ちは忘れがちだ。気をつけなければならない。
しかし何より気をつけなければならない大切なことがある。それは、自分が〝してあげた〟ことを相手が忘れていたとしても、
「あんなに○○してあげたのに!」
と感じて怒ることだけは、絶対にしてはしてはいけないということ。
その感情を誰か一人が持つと、例えが悪いかもしれないが、まるでたった一つのミカンが腐っているばかりに周りのミカン全てが腐っていくような強烈な伝播力で広がっていく。

「あのとき奢ってやったのに!」
「落ち込んでるときに慰めてやったのに!」
「熱出したときに看病してやったのに!」

例えそんな風に思うことがあっても、その不満が相手に伝わってしまうと良くない。それ以降は感謝の言葉を言ってくれるようになるかもしれないが、お互いの関係がギクシャクしてしまうからだ。相手に
「お礼を言わないと気分を悪くされる」
という理由でお礼を言われて、何が嬉しいものか。
感謝の言葉を述べない人がいるとしても、その人は強制的にではなく、自分の力で〝してもらった〟ことに気づくほかないのだ。

あまりにも理想論すぎて自分でも実践できる自信が無いのだけれど、これからもおそらくそこそこ長い間生きていくであろう僕の人生に向けて、この言葉を戒めとしてここに書いておく。

「してあげたことは忘れろ」

それでは皆様ごきげんよう。


人生初の裏切られ経験

皆さんこんにちは。
これを読んでいる皆さんは、人を裏切ったことがありますか?裏切られたことは?
おそらく、裏切られた方はいつまでも覚えていることでも、裏切った方にとっては思い出せないような、そんなエピソードがきっと私達の生活の中には沢山潜んでいるのだと思う。

中学生の時、Kという友人がいた。彼は新しく転校してきた女の子と付き合っており、その子と毎日一緒に帰っていた。彼がいわゆるヤンキーという人種であったIやMにいじめられだしたのはそのことと無関係ではなかったと、私は記憶している。
修学旅行の班決めで私はKと同じ班になった。IやMからターゲットにされていることで他の同級生から多少なりとも敬遠されていたKに、私はかなり同情していた。
夜、みんなで談笑していると、IやM、その他大勢の輩達が部屋に乱入してきた。そしてKを袋叩きにし始める。
その頃はこういったことが日常的に行われていた。私ははできるだけ庇っていたが、それがまさに目の前で起きているその時は、体を張って止めるしかなかった。
そのときMは恐ろしい事を口にした。
「これ以上庇うとお前もやっちまうからな。」
彼らが部屋から出て行ったあと、窓の外から何やら話し声が聞こえてきた。
「あいつまじでむかつくなー。やっちまおうや。」
MとIの話し声だった。
私の部屋のちょうど両隣が、先ほどの襲撃者達それぞれの部屋だったのだ。
これが私の記憶に残っている、修学旅行の唯一の思い出である。

それからの私は、トイレに行くのも苦労する生活を送らなければならなかった。
男にとって、トイレで用を足している時ほど無防備な時は無いのだ。
私は学校を休みがちになったし、授業中に祈りながらトイレに行くような生活を強いられた。

結果的に私が袋叩きに遭うようなことは起きなかったのだが、そのあと私は人生で初めての裏切りに遭った。
事の始まりは、KがIやM達と和解したことであった。
私もなんとなく和解したような雰囲気になっていたので、丸く収まってよかったなと安直に考えていたのだが事実は違っていた。
Kが、なんとか私をいじめの標的にするために、IやMに私の悪口を有る事無い事吹聴しているという話を、私はIから聞かされたのだ。
私の行為は、悲しみは、恐怖は一体なんだったのだろう。

数年前、何もなかったかのようにFacebookで話しかけてきたK。
久しぶりに私に会いたいなどと抜かしているらしいM。
俺に謝罪しないことを恥ずかしく思わないのなら、そのまま生きればいいと思います。
過ぎ去ったいい思い出になんか、なってませんからね。

君達がいたから俺は、音楽家として成功できたわ。
ありがとうね。
まじで、ありがとう。

無事かどうかは分かりませんが、Ao復活ワンマンライブが札幌と東京共に終了しました。
正直に言えば、思うように歌えない中でのライブ決行は様々な不安や恐怖との戦いでした。
当日ライブが始まってからも、数曲の間は苦しさと恥ずかしさと申し訳なさが心の中に渦巻いており、それらが決壊して心が折れそうになりました。涙を流しながら歌ってしまうという有様で、自分が情けなくなりました。
かと言って、悲劇の主人公のような振る舞いでお客さんの同情に訴え、無理矢理ライブを成立させるような空気にするような卑怯な真似だけは絶対にしたくなかった。
しかし札幌も東京も、見に来てくださった方々は本当に温かく僕らを迎えてくださいました。
皆さまに助けられて、僕は苦しいながらもライブを楽しめましたし、最後まで歌い続ける事が出来ました。
本当に、本当にありがとうございました。